八女町家 と 八女町家ねっと について

「八女町家ねっと」とは

先人の知恵と匠が長い年月をかけ、清流・矢部川(やべがわ)に育まれた風土とその恵みを受けて育まれた資材を調達して受け継がれた八女地方の町家建築。その八女福島の町並みに積極的に関わっている後述するNPO3組織で構成されます。

矢部川清流矢部川

江戸時代になる直前の城下町の町割りを起源とし、近世を経て徐々に洗練され、度重なる火災に備えた商家のしつらえと住宅のしつらえを兼ね備えた「居蔵(いぐら)」と呼ばれる町家建築。これこそが八女町家の特徴です。一軒一軒の町家が伝統構法の優れた技術の結晶であると同時に、町並みとしてそれぞれが連なり、奥行きの深い敷地割の空間構成のなかで八女福島の町並みをつくり上げてきました。

高度経済成長期からバブル経済期を経て、平成3年の大型台風による被害を契機に多くの町家建築が解体され、町並みが失われていく現実に直面しました。この状況に危機感をもった地元住民や周辺の市民の有志が集まり、様々なまちづくり団体が生まれる中で、行政も町並み保存・整備に取組み始め、町家の修理事業が本格化する中で、伝統構法の継承を合言葉に、地元の建築士が積極的に関わり、住民の相談活動をはじめとする町家の修理・修景事業を手掛ける建築の技術集団として「八女町並みデザイン研究会」が誕生しました。(2000年[H12])

その後、八女は仏壇、提灯、石灯ろう、手すき和紙など伝統工芸の息づく職人のまちでもあり、町家暮らしをはじめ八女の文化の継承と発信を活発化するため、とある歴史的建築物の再生をきっかけに文化に関わる人が集い、「八女文化振興機構」が誕生しました。(2003年[H15])

一方、中心市街地の一角を占める八女福島の町並みも少子高齢化が深刻さを増し、空き家が増加する一方で、空き町家の保存活用を積極的に進め、新たな住民を受入れコミュニティー維持を目的に、空き家の所有者と町家に住みたい、または店を開きたい人との橋渡しをする専門部隊として市職員も町並みに汗をかくべく集い「八女町家再生応援団」が誕生しました。(2003年[H15])

今回の「八女町家ねっと」は、町家の保存再生に積極的に関わっている3組織で構成されていますが、さらにまちづくり団体に呼びかけて、連携を強める方向で活動します。八女の暮らしや文化を記憶する町家建築が一軒でも多く保存再生されることを願い・・・。

四季折々の八女の町家暮らしを町家の魅力とともに、このホームページで活動の一端をご紹介します。

 

 

八女福島の町並みと町家建築

八女福島の歴史

城下町から在方町へ

八女市の中心市街地・福島は天正15年(1587)筑紫広門が築いた福島城を、慶長5年(1600)関が原の戦いで功を上げ、筑後一円32万5千石(柳河城を本拠とした)に抜擢された田中吉政が、支城として大修築し、城下町をつくった後、大きく栄える。

八女福島の地域構造図

福島城は三重の堀によって囲み、中堀・外堀の南半には城を迂回する往還道路に沿って「町人地」を配したと考えられる。町人地の敷地はこの往還道路と中堀・外堀の間に短冊状に地割がなされている。元和6年(1620)当地は久留米藩有馬豊氏の支配下となり、福島城は廃城となったが、町人地はその後も八女地方の交通の要衝の地として、また、経済の中心地として発展する。福島は城下町としては短期間であったが、その間に都市の主要な骨格ができたと思われ、今も本丸跡、城堀跡の水路、屈曲した道路網等当時の面影を残している。

城下町復原図城下町復元図

堀東京町、外堀のなごりの水路空間

近世以降八女地方は、和紙、ハゼ蝋、提灯、仏壇、石工品、茶など様々な特産品の開発やそれを素材とした工芸品の創作に取組んできた。農産物の生産・流通の拠点であることに加え、積極的な商工業の振興による富の蓄積で重厚な商家が連続する町並みを形成していった。

近代化とモータリゼーション発展は都市構造を大きく変えた

福島は明治に入っても往還道路沿いの町並みは依然として中心街として栄えたが、徐々に近代化の洗礼を受けることとなった。明治後期に入るとまちの北側に西から東へ国道442号、東側に北から南に国道3号が整備され、国鉄(現JR)羽犬塚駅から「南筑馬車軌道」や久留米から「三井電気軌道」が通じ、交通網の整備や手段により国道442号と国道3号が交わる土橋(どばし)が八女の地の玄関口として栄えることとなった。1945年(S20)国鉄矢部線が開通し、その繁栄は戦後まで続いたが、ライフスタイルの変化、とりわけ車の利用は、中心街の渋滞と生活圏の拡大をもたらし、次第にまちはその骨格を作り直す必要を迫られた。1958年(S33)三井電気軌動の廃止、昭和40年代以降には国道3号のバイパスの完成、九州自動車道八女インターの開設、国鉄(現JR)矢部線の廃止、福島を四角に囲む環状線道路の完成などにより車社会中心のまちの骨格が形成された。

こうした都市構造の変化は、商店街が立地する中心部から商業機能を国道3号バイパスや環状線道路沿いにシフトすることとなった。一方で、往還道路沿いの町並みは、商業機能は失ったものの戦災やモータリゼーションに伴う開発などから免れ、現在でも矢原(やばら)町(まち)・古松(ふるまつ)町(まち)・京町(きょうまち)・宮野(みやの)町(まち)・紺屋(こんや)町(まち)には、伝統的町家建築が多く残っている。


八女福島の町並み説明図

八女福島の町家建築の特徴

福島の町家建築の特徴は、「居蔵(いぐら)」と呼ばれる妻入入母屋大壁塗込造りを基本とする防火構造の土蔵造りで、江戸時代以来しばしば大火に襲われたことから、江戸末期から明治にかけて建てられた。

IMG 0521 居蔵造 今里亨家福島で最初の居蔵の町家建築:天保9年(1838年)建築

主屋は3~4間の梁間に小屋組みをかけ、両側に袖下屋を下ろす形式である。1階の部屋の配列は3~4室の部屋を一列に並べ、通り土間を配している。江戸末期から明治前期の町家では商品の荷揚げに利用した吹き抜けが設けられている。主屋の座敷に面して中庭をとり、それを囲むように廻された廊下に接して便所と風呂場が置かれている。通り土間の奥には炊事場が設けられその奥は離れ座敷から蔵へと続く。この基本的な「型」を共有項として、それぞれの敷地形態や建物の規模に応じた多様性を許容しながら、しかも全体として統一性が保たれている。間口が狭く奥行きの長い敷地割ゆえに考案された中庭や通り土間の存在は空間構成の質の高さを感じさせる。

IMG 1558 軒切りをま逃れた家軒切りを免れた町家

屋根が妻入形式が多いことから一戸の住居単位が明快であり、また、下屋の存在で建物の高低にも変化がある。このことは町並み景観に連続性とともに快いリズム感を与えている。また、江戸時代から昭和初期までの真壁造りの町家や明治以降の居蔵造りの町家も妻入で大型のものや平入で袖下屋を持つものも建てられ、変化ある町並み景観を楽しませてくれる。また、明治中期・昭和初期の二度の道路拡幅に伴う町家の軒切りにより、町家正面の一階意匠が大きく変化しているが、二階意匠は多くが旧状をとどめている。これも八女福島の特徴である。

NewImage

NewImage

トップに戻る

 

黒木の町並みと町家建築

黒木の歴史

黒木の町並みは、八女福島からさらに山間部へ10㎞余りの筑肥山地の裾野に位置し、一級河川・矢部(やべ)川(がわ)と笠(かさ)原川(はらがわ)の合流する地点の西側に形成された。中世の猫(ねこ)尾(お)城(じょう)(黒木氏が築城し本拠とした。)の城下を起源としている。天正12年(1584)、豊後・大友氏の攻撃を受けて落城し、天正15年(1587)に豊臣秀吉の九州仕置より、所領は筑紫広門に与えられ、鎌倉期より続いた黒木氏の支配は終焉した。

町並みは、天正期の福島城主・筑紫広門により下町、慶長7年(1602)頃に筑後国主・田中吉政により東に続き一旦北にクランクする形で道が通し、中町・上町が町立てされ、元和6年(1620)に矢部川[御境川]の中央での国割りにより右岸側が久留米藩領に安堵され、有馬豊氏の豊後別路(往還道)整備に伴い新たな町立てが行われた。

黒木は、天正15年(1587)に現在の下町が、次いで慶長年間に東に続き一旦北にクランクする形で道が通し、中町、上町が町立てされたと推定される。その際に中井手用水が、次いで正徳4年(1714)に黒木廻水路が整備されて現在の町並みや水路の基礎ができ、以後、江戸時代を通じて栄えた。特に、久留米藩上妻郡の商工業の中心的機能を果たし、江戸期を通じ茶・楮・堅炭など豊富な山産物の取引を背景に在方町としての発展を遂げ、「上妻郡黒木町絵図」の描写からも同藩領五ヶ町の1つとしての繁栄を窺い知ることができる。明治13年(1880)の黒木町大火により西上町から下町の一部にかけて120戸余りが灰燼に帰したが、町並みは、この大火前後にかけて、通り両側に茅葺から「居蔵(いぐら)」と呼ばれる耐火型の町家が再建された。また、明治期から大正期には、旧八女郡第二の商業地として賑わいをみせたと記録が残る。(『八女郡是』明治32年)明治41年(1908)、当地を訪れた民俗学者・柳田國男は、路傍の清流や並木、石張り塗り家を見聞し、全国でも類稀な古く黒みたる特異な町並みとの印象を書き残している。(「並木の話」『豆の葉と太陽』昭和16年.創元社)

町並みの特徴

町並みの骨格は、二段階の町立てを経て成立した経緯を反映したとみられる矩折れを介した特異な街路を基盤として、近世初頭にかけて計画的に形成された上町・中町・下町の町並みは、奥行きがほぼ揃い整然とした短冊形の宅地が広がる町並み空間が成立した。 町並みは、素盞嗚神社を起点に上町・中町、矩折れを経て下町の東西に延び津江神社に至る表通りに、明治13年(1880)の大火前後にかけて「居蔵造」と呼ばれる上質の町家が建ち並び、明治後期から大正期にかけては伝統様式の改造によるファサードの改修、真壁造町家や洋風建築なども建ち込み、多様な建築形式の混在する町並みの全盛期を迎えた。

この町並み空間のうち、中町・上町の北側を限るように、町立てと同時に成立した中井手用水が通され酒蔵や醤油蔵が建ち並び、町並みの南側には遅れて開削された黒木廻水路が通され、蔵や川に臨む座敷を備えた離れ家などが建ち並び、下町屋敷尻にも明治期の土蔵や納屋が建ち並び、町並みはこれら往還道と水系により骨格づけられ、水路の清流、護岸の玉石積、畑地や小堂などと相俟って独特の風致景観が形成された。 また、矢部川には昭和29年の架橋になる「南仙橋」が通学路や散策路としても利用され、町民の心象風景の1つとして親しまれている。

町並みの東端に勧請された素盞嗚神社には、樹齢600年を数える大藤が4月中旬から馥郁とした花房を垂下させ、西端を限る津江神社には樹齢800年を越える大樟が端正な樹冠を広げ、屋敷建築とともに町並みの出入口を象徴するランドマークとなっている。

町家の特徴

黒木の町家建築は、妻入り二階建、屋根は入母屋造桟瓦葺を基本に、両袖に下屋を降ろし、外壁は軒裏まで漆喰で塗り込めた大壁造とし、九州北部の商家に多く分布する「居蔵造」と呼ばれる町家建築の流れを汲み、腰壁には板状の緑泥片岩(青石)を張るスケールの大きな外観も見受けられる。

町家建築の配置形式は、上手を東側、下手を西側とする例が多く、前面の町通りに面して大型町家で余地をとるケースを除き主屋を敷地間口一杯に建てる。  町家建築の屋根形式は、妻入りを基本とするが、敷地奥行きが浅い東上町や茅葺町家に起源すると考えられる下町では、平入りとする。

主屋の上屋梁間は三間から五間半を基本とし、規模が小さい場合は、前面または片袖のみの架け降ろしも見られるが、上屋梁間三間を基本としつつ、五間を超える大規模町家では両袖に下屋を降ろす点が大きな特徴である。

町家建築の構造形式は、明治13年の黒木町大火の前後に防火性能に優れた瓦葺居蔵造が多く見られるが、大火を契機として軒裏を塗り込めない擬似居蔵造へと移行する傾向が見られる。小屋組は、天秤梁を使用した形式が主流を占め、登梁や洋小屋なども散見され、洋小屋は明治40年に登場する。

町家建築の立面形式は、居蔵造の場合、二階開口部は縦型の小型窓に片開き、または片開きの防火戸を建てることを基本とし、真壁造の場合は、連窓として引通し雨戸を建て戸袋に収め、大正期以降は引違いガラス戸を建てる。

一階開口部は、土間部が主屋柱筋に吊上げ大戸、ミセ部は吊上げ蔀戸、奥のナンド部は、壁面主体の閉鎖的構成とし、下屋庇筋に鉄格子窓を設けることを基本とし、明治13年の大火前に成立をみたものと推定される。

居蔵造町家の場合、一階ナンド部下屋柱筋の腰壁や側壁に緑泥片岩(青石)を張り込んだ事例も散見される。なお、旧松木家住宅を含む町家建築の殆どが、建築当初の外観に関して中塗仕上げであったことが聞取り調査と痕跡調査から判明している。

町家建築の平面形式は、東側が下手、西側が上手を基本とする。部屋配列は、一階は2列4室を基本とし、下手を通り土間、上手の表の間にミセとナンド、上手中の間にゴゼンまたはブツマを2室設け、上手奥の間の土間側にダイドコロと壁を隔ててザシキを設ける。但し、間口規模の小さい場合は、単列型となり、表の間のナンド、中の間のゴゼンまたはブツマ、奥の間のダイドコロを省略するが、真壁造町家では間口規模に拘らず、ナンドを省略する。二階は下手と前面に広い板敷の物置を設け、上手に畳敷の続き間座敷を設ける。このように一階にも二階にも座敷を設けること、かつ二階に広い倉庫を設けること、一般的には土蔵や離屋に収める空間を主屋に収める点が黒木の大きな特徴に挙げられる。このことは、仲介を業務とした商人の町であり、買出仲買商、荒物商、茶商、呉服、穀物などが多い町であったことに由来する。そのための大規模倉庫の必要性から生まれたものといえる。また、主屋一階の竿縁天井を張った主座敷上部の二階にも竿縁天井を張った座敷を重ねる例が多く見られ、江戸末に成立をみた平面形式と推定され、二階座敷はいずれも周囲の山並みの眺望景観を取り入れ、山並み景観に恵まれた黒木固有の特徴といえる。

さらに、居蔵造の場合、表間上手に小窓を穿った閉鎖性の高いナンドを設ける点も大きな特徴で、村方の民家に見られる平面構成を継承し、農家的色彩を留めた町家建築である。 町家建築の内部意匠には二種が見い出せる。まず建築を構成する軸組に化粧を施してそのまま意匠とした質実な印象を与える空間、次に軸組を化粧材で隠し各種の意匠を施した端正な印象を与える空間がある。特筆すべきは、二階にも二種の空間を形成する点が大きな特徴となっている。

町家建築の画期は、明治13年の大火を契機とした防火性能に優れた居蔵造よりも、表構えのみ居蔵造とした擬似居蔵造の町家であり、大火以前の構造形式の表構えのみ踏襲したことが判明している。立面形式が大きな変化を遂げるのは明治30年代であり、大戸と吊上板戸に代って、土間側に引通し雨戸が普及した。前土間形式が普及する大正期には、全面に引通し雨戸が普及する。内部も明治大火以前に成立した一階座敷と二階座敷を上下に重ねる形式は明治中期まで継承され、その後、一階を主座敷とする平面形式から、二階に主座敷を設ける平面形式への転換がみられる。黒木の町家建築の画期は、内外に生じた明治後期にあり、この時期、町並みの出入口にあった枡形が直線化され、矢部村から福島へ至る道路改良が竣工し、道路の両側には並木も植えられ、町並みの近代化が図られている。

町家建築以外では、屋敷建築が、町並みの出入り口や角地に所在し、町家建築とともに町並みを象徴する景観を形成している。洋風建築は、病院建築、公民館を改造した庫裏が残される。

なお、保存地区内の殆どの町家建築等は棟木墨書を有しており、江戸末期から昭和前期に至るまで、町並みを構成する建築物の建築年代をほぼ正確に把握することができる。

 

トップに戻る